お知らせ
 このページは地元上道地区のいろいろな史跡を紹介します。
身近な史跡で分からないことがあれば連絡をください。調査の上,掲載していきたいと思います。

上道史跡めぐりサイクリングマップはこちらです

連絡先

地域をクリックすると説明に飛びます


各地区の地名 
岡山市の地名」(平成元年4月1日発行 著者:岡山市地名研究会 岡山市発行)より引用しました。
岡山市立上道中学校1年生が行った「上道学区横断ウォークラリー’98」で
生徒たちが町内を調査した成果を資料として利用しました。

御休地区 西祖,吉井,1日市,寺山,浅川,矢井,楢原
角山地区 竹原,内ケ原,才崎,百枝月
平島地区 砂場,東平島,西平島,南古都,浦間
浮田地区 上道北方,中尾,沼,草ヶ部,谷尻,本村,赤坂,城東台 


谷尻(たにじり)
 岡山城下町の東,上ノ山のふもとの村。築地山の東端の谷にあたることから命名された。
 村北西に,氏神の武部神社八幡宮(現武部神社)があり,境内から眺めると草ヶ部や谷尻の条理の跡がよく残っているのが見える。
 「備陽記」によると,村高176石8斗6升,田畑14町9反7畝,家数44軒,人口225人とある。
 ブドウの産地である。

草ヶ部(くさかべ)
 岡山城下町の東,小廻山のふもとにある村。明治8年(1875)小廻山の上の築地山の村を編入した。
 村名は,古代の日下郷,中世の草壁郷にちなんだという。
 「備前記」には村南に八幡宮があって松茸が採れたとある。村中に立川大明神(現,立河神社)王子権現があり,池は7つあった。
 「備陽記」によると,村高926石1斗6升,田畑66町2反2畝,家数75軒,人口400人とある。
 日下郷(くさかべごう)は仁徳天皇日下・若日下命の御名代地として設けられ,郷名は御名代(みなしろ)にちなんだと言われる。
 ネオマスカットの創始者広田盛正はここの生まれでその顕彰碑がある。そのすぐ後方に大庄屋井上邸がある。
 築地山の山腹には築地山常楽寺があり,地域の菩提寺となっている。天台宗である。
 築地山(ついじさん)村
 現在は草ヶ部と合併しているが、大廻り山の南面中腹の村。
「備陽記」によると村高118石8斗6升、田畑9町7反、家数19軒、人口36人とある。
また戦後、引揚者による26戸が入植してブドウ栽培が行われた小廻山開拓地は現在半減している。
 

(ぬま)
 岡山城下町の東、砂川の右岸の村。
 村名は砂川のはんらんでこのあたりの低地が深田や沼のなったことによる。山よりの集落で南部に、沖益、楢部、八塚、赤坂があった。山陽道が通り、茶屋があった。赤坂には一里塚があった。村西には青津八幡宮、楢部には弁財天があった。池が多くあり11か所あった。
 「備陽記」によると村高354石6斗8升、田畑27町3反1畝、家数30軒、人口262人とある。
 沼城は、城のあった山が亀の形に似ていることから亀山城といわれた。戦国時代、中山備中守信正によって築城され、宇喜多直家が天正元年(1573)岡山城に移り住むまで13年在城した。江戸の初期に廃城した。
出城のあったところに現在の浮田小学校が立っている。
 沼の茶屋(太閤休茶屋)は宇喜多直家が豊臣秀吉を接待するために仮茶屋を建てたことにちなんだ地名である。

中尾(なかお)
 岡山城下町の東,山陽道が通る村。
 「備前記」によると,山寄りの集落で,村北に熱田神社八幡宮(現,八幡宮)があり,村前に山陽道の茶屋があった。また,村北の畑の周りに源為朝の墓があるとの言い伝えがある。池が10ヶ所ある。
 現在はグループホーム「まほろば」がある。

上道北方(じようとうきたがた)
 岡山城下町の東,新道山の南東のふもとの村。南潟(南方)に対して北潟(北方)といったことから命名。
 古都庄の下地中分により南北に分割されたことに由来するとも言われる。
 山陽道が通っていた。
 村内に真言宗高福寺医光院があり,薬師如来を本尊とする。
 「備陽記」によると,村高772石7斗4升,田畑51町8反3畝,家数83軒,人口446人とある。
 以前は「上道町北方」であったが,岡山市に合併するときに,同名の北方と区別するために「上道」の文字が加わった。

楢原(ならばら)
 岡山城下町の東,大日幡山の西にある村。山陽道が通り,茶屋があった。
 一日市と沼間の休み茶屋として栄えたといわれる。山陽道は,砂川に船を並べて板を渡して作った船橋で渡ったということからそれが地名となり,小字「船橋」となった。
 和田八幡宮(現,八幡宮)・薬師堂がある。
 「備陽記」によると,村高575石4斗3升,田畑34町9反7畝,家数95軒,人口473人とある。

矢井(やい)
 岡山城下町の東,朝尾山の南西ふもとの村。村名は,戦いのときに村内の井戸に矢が飛んできたことにちなむと言われる。
 「備陽記」によると,村高267石,田畑17町3反6畝,家数53軒,人口303人とある。
 東方に報恩大師創建といわれる真言宗朝尾山薬王寺があり,薬師如来を本尊としている。江戸末期,同寺の住職が和歌山の淡島明神を崇拝して祠を建てた。明治期になって通夜堂を建立している。境内に鳥居があるのはこのせいである。

浅川(あさかわ)
 岡山城下町の東,大日幡山の北東の村。村名はしばしば川が氾濫して浅い川のようになったことにちなむと言われる。北域を山陽道が通り,春日大明神(現,福岡神社)があった。村南の山の上を火鉢ケ城といい,三河守観阿弥が居城したという。
 「備陽記」によると,村高477石8斗9升,田畑28町5畝,家数43軒,人口253人とある。
 春日大権現の宮山を大宮といい,備前等の大宮物はここで打ったとあり,その残滓も出土するが,浦間のうち西部の金黒谷を大宮鍛冶場史跡とする説が有力である。
 浅川団地(当時155戸)がある。

寺山(てらやま)
 岡山城下町の東,吉井川沿いの村で,大日幡山の東にある村。
 「備陽記」によると,村高374石8斗2升,田畑23町7反8畝,家数43軒,人口243人とある。
 本庄の藪の中に宇喜多直家の生母といわれる墓がある。墓はリョウビガーデン敷地造成のために,寺山から西祖の共同墓地に移された。
 リョウビガーデンには竹久夢二の作品が展示されている。

西祖(せいそ)
 岡山城下町の東部にあった山ががりの村。村名は,かつてこの地に禅宗西祖寺があって,地名も西祖寺と言ったことにちなむという。
 新町は山陽道に沿って町並みを形成し,茶屋が並んでいた。字寺の奥に西祖寺の跡があり,弘法大師を祭る太師堂がある。
 西祖の共同墓地に,宇喜多直家生母の墓が寺山から移されている。
 「備陽記」によると,村高408石8斗2升,田畑25町2反7畝,家数69軒,人口376人とある。

一日市(ひといち)
 岡山城下町の東部にあり,吉井川に接する。村名は中世,この地で一の日に市が立ったことにちなんだ。
 山陽道が通り,東の片上宿,西の藤井宿の間の宿場と定められ,町並みが形成されてにぎわった。
 近世になって八日市・吉井間に渡し場ができても依然として大川渡し場があった。
 岡山から4里(16Km)あり,村はずれの吉井川堤防にエノキの一里塚があった。エノキは昭和16年(1941)県の史跡として指定を受けていたが,国道の改宗で北側の1本が倒され,指定を解かれた。側には明治18年(1885)この地を巡幸された明治天皇の祈念碑が移されている。一日市の吉井川堤防で,明治天皇が休憩されたことの光栄を記念したことかが,のちの村名御休村の由来となった。
 「備陽記」によると,村高390石5斗1升,田畑24町2反2畝,家数75軒,人口416人とある。

吉井(よしい)
 岡山城下町の東,吉井川の平野部にある村。
 山陽道の吉井川起点に当たり,かつては吉井村で渡しをしていたので,吉井の渡しとよばれた。池は5カ所,船は渡しととも8隻あった。石津大明神(現,石津神社)・八幡宮があった。
 延宝年間(1673〜81)に完成した倉安川は,吉井水門で吉井川から取水している。
 「備陽記」によると,村高234石7斗4升,田畑14町9反,家数は54軒,人口299人とある。
 吉井水門は吉井川の堤防に作られた取水口と,その内部にある高瀬回しから倉安川の水路に出る出口に設けた水門からなる。
 水門の近くにある石造宝塔(県重文)は後鳥羽上皇が配流地の隠岐で没したとき,奉仕する吉井の刀工が,上皇の遺髪を持ち帰り,宝塔を造って納めたと伝えられている。なお,足利尊氏が吉祥院に建てた利生塔だとする説も有力である。
 氏神の石津神社はかつて東山の谷にあったものが遷宮したものといわれる。境内にある嵯峨天皇の腰掛け石をなでた手で自分の痛いところをなでると直ると言い伝えられ,信じられている。

砂場(すなば)
 岡山城下町の東にあった平地の村。村名は砂川の氾濫でしばしば砂場ができたことにちなむという。
 現在の砂川は村の西を流れているがこれは改修したためで,以前は村の東側を流れていたという。現在の県道のあたりである。
 「備陽記」によると村内に辻堂があり。村高284石5斗2升,田畑19町4反2畝,家数27軒,人口159人とある

西平島(にしひらじま)
 岡山城下町の東,砂川中流域左岸の平野部にある村。村名は,北居都(きたこず)八幡宮を祭る宮山が,平らな島に見えたことにちなんだと言われる。村北西に,築杵(つききね)八幡宮。天神宮がある。
 「備陽記」によると,村高367石7斗,田畑27町2反,家数52軒,人口334人とある。

東平島(ひがしひらじま)
 岡山滋養蒲池の東,西平島の東にある村。村名は,北居都(きたこず)八幡宮を祭る宮山が,平らな島に見えたことにちなんだと言われる。慶長10年(1605)の「備前国高物成帳」の福岡庄の内に,平島村と西平島村がみえる。天和元年(1681)に東平島村と改称する。
 「備陽記」によると,村高1176石6升,田畑60町1反4畝,家数112軒,人口634人である。
 西島は田畑33町2反5畝,家数47軒,人口270人である
 寺社に天台宗福田寺と北居都八幡宮(現,北居都神社)がある。
 宇喜多直家は,亀山城主となった翌年の永禄3年(1560)当時焼失していた福田寺を再興して,毘沙門天の木像を安置し,亀山城の丑虎(北東)の守護仏として信仰した。
 「備前記」によると,西島で収穫された早稲が,毎年6月初旬藩主に献上された。

南古都(みなみこづ)
 岡山城蒲池の東,西南辺を砂川が流れる平野部にある村。
 村名は,南居都八幡宮にちなんだという。同八幡宮は明治43年(1910)かつての東平島村の北古都八幡宮に合祭された。
 「備陽記」によると村高231石3斗5升,田畑27町1反,家数50軒,人口271人とある。
 小鳥の森団地(当初200戸),南古都団地(当初195戸)がある。

浦間(うらま)
 岡山城下町の東,妙見山の西南ふもとの村。村名は古くは,入り江のほとりにあったことにちなむと言われる。
 「備前記」によると,村中に天台宗長円寺跡があり,村南には茶臼山城跡がある。また,大型の前方後円墳である浦間茶臼山古墳(国史跡)がある。
 「備陽記」によると,村高389石1斗2升,田畑78町8反9畝,家数82軒,人口475人である。
 浦間の北西部の西部(にしべ)は,沼村の沖新田と同じ頃に開発されたという。吉井村からの移住。入植といわれる。戦前は吉井の石津神社の氏子として参加したという。現在の鎮守少童(わだつみ)神社はかつて浦間の氏神であったといわれ,雨乞い行事の神として名高い。
 浦間茶臼山古墳は,古墳時代前期の全長約130mにおよぶ古墳で,矢尻,まがたま,鉄剣などが出土したといわれる。
 中世に大宮剣工として知られた備前刀の大宮物は,浦間のうち西部の金黒谷一帯で生産され,浅川村大宮で売られた。

内ケ原(うちがはら)
 岡山城下町の東、大日幡山の東南、吉井川沿いの平野部の村。村名は角山に抱かれた原に由来するという。
 「備前記」によると、村東北に津宮八幡宮があり、社領高は2石4斗である。池は3ケ所ある。「備陽記」によると、村高578石7斗4升、田畑37町9反2畝、家数67軒、人口368人とある。
 現在、上道農協のライスセンターがある。

才崎(さいざき)
 岡山城下町の東、大日幡山の南西にある村。
角山村の村役場が置かれた。角山村は角山とそのふもとを環流する河水を角山用水といい、4か村に関連していたことから山水の名称をとった。
 「備前記」によると村高427石7斗8升、田畑26町3反5畝、家数60軒、人口340人とある。
 農業地帯で、ブドウ、モモ、ナシの産地として知られる。

竹原(たけはら)
 岡山城下町の東、新庄山の南東にある村。村名は、砂川の堤防に竹藪の続いた景観にちなむという。
 「備陽記」によると、田畑73町6反2畝、家数195軒、人口1038人とある。村高は不明であるが、「備前記」によると村高1204石9斗6升とある。
 「温故秘録」によると、船3隻、片岡大明神・八幡宮。貴船大明神、新庄山城跡があり、馬路山には天台宗明王寺がある。同寺は報恩大使草創の備前48ケ寺の一つで、古くは寺中13ケ寺を数えた。寺蔵の聖観音立像(県重文)は一木づくりで、乳首を表したり、腰帯をおおきくのぞかせたりしている点が珍しく、藤原時代の異色作と言われる。
 現在、三徳園、上道公民館、上道支所などがある。

百枝月(ももえづき)
 岡山城下町の東部に山がかり、川沿いの村。村名はこの地に八方へ枝を広げた槻(つき)の名木があったので百枝槻と呼ばれ、転じて百枝月となったという。
 古代にはこのあたりが児島北のの海の奥部の船着き場であったといわれる。「温故秘録」によると「山寄、大川端、船4隻、渡し舟とも」とある。「備前記」には「村前より邑久郡豆田村へ舟渡アリ」とある。村東には社領高6石の岩熊八幡宮、村北には平安中期の仏師定朝作と伝えられる薬師如来を本尊とする真言宗円福寺がある。寺に近い西畑から銅鐸が出土している。宮山西塚古墳には、くりぬき式石棺がある。
 「備陽記」によると、村高1042石4斗2升、田畑68町6畝、家数149軒、人口791人とある。